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第3章 パジャマと洗い髪と裏切り者
 珍しくというのも変だが、家の電話が鳴った。掛けることはあっても、掛かってくることのない電話。無くても困りはしないのになんとなく契約しているわけだが、こうやって鳴っている姿を見るとなんだか哀愁のようなものが感じられた。
「何やってんのよ」
 受話器を取ると唐突にそう言われた。
「ミクか、何か用?」
「何回も電話してるのに全然出ないんだから」
 そう言われて携帯を確かめてみると着信履歴がいくつも残っていた。
「ああ、マナーモードにしてたから気付かなかったよ。ごめん」
「まあ、いいわ。今から会える?」
 明日までに仕上げないといけない仕事があったのだけど、もうほとんど書き上げていたので、とりあえず断る理由は無さそうだった。
「いいけど、どこに行けばいい?」
「今日は早番なの。今終わったとこだから外でいいわよ」
「じゃあ、家に行くよ。ちょうど荷物取りに行かなくちゃいけなかったから」
「そう、じゃあ、待ってるわ」
 そうやってミクに呼び出されるのは珍しいことではなかった。僕は支度を整えてから実家に電話を入れ、アパートを後にした。天気が崩れそうな雰囲気はあったが、駅まで辿り着いてしまえば後はあんまり濡れずに家まで行けるので傘は持たずに出てきた。
 駅に着いて電車が来るのを待っていると案の定雨が降ってきたが、向こうに着く頃にはすっかり晴れ上がっていて、ホームに降り立ち改札の方に向かって歩き出すと後ろから聞き慣れたいつもの声が聞こえてきた。
「あら、一緒の電車だったの」
 僕は振り向いて、ミクの姿を確かめた。
「何かあった?」
「ちょっとね」
 ミクはそう言っただけで、話を続けようとはしなかった。僕らは改札を抜け、歩き慣れた駅前商店街のアーケードの下を通り、2人の生まれ育ったマンションに辿り着いた。
「じゃあ、家に顔出してから行くよ」
「うん、ゆっくりでいいわよ」
 別に実家でくつろぐつもりなんて無かったけど、食事時にお邪魔するのも悪いかなと思って、僕はミクの言葉に従うように少し時間を置いてから家を出た。
 上に行くボタンを押してエレベーターの前で待っていると僕はなんだか感慨深い気持ちになった。普通、マンションのエレベーターで途中の階から上に向かうことは少ないわけで、下に行くボタンはなんだか薄汚れた感じに古さを醸し出していたが、上に行くボタンはまだ新しさを保ち続けていた。僕らが生まれた年に建てられた同い年のマンションにミクは新築の頃からずっと暮らし続けていて、僕の家は数年後に引っ越してきた。就職しても家を出ようとしないのは、それだけ愛着があるからなんだろうなとずっと思っていたし、ミクがここを離れる日がやがて訪れるということが信じられないくらいにエレベーターはいつもと同じように上がって来ては僕を運ぶ。30年の間にこの上に行くボタンは何回くらい押されたのだろうか。きっとその大半は僕が押したものだろう。そして、それもそろそろ最後となるのかも知れないというリアルな現実が僕を寂しい気持ちにさせた。

「こんばんはー」
 僕は慣れた感じにミクの家の玄関の扉を開けた。
「いらっしゃーい。ゆっくりして行きなさいね」
 奥の居間からミクのおばさんの声だけが聞こえてきた。僕はそのまま入って直ぐ横の扉をノックした。そこは子供の頃からずっと変わらずミクの部屋で、しばらく待っても反応が無かったので、僕は勝手に扉を開け中に入った。
 最近では滅多に来ることも無くなったが、この部屋だけは時間が止まったように昔のままで、僕にとってはアパートの部屋や実家に居る時よりも安心できる空間ではないかと感じられた。
「ごめんね、待たせちゃって」
 ミクはそう言いながらパジャマ姿で現れ、洗い髪をタオルで丁寧に拭いていた。本人に言うときっと激怒するだろうけど、そのパジャマの趣味も昔のままで、歳相応とは言い難いものがあった。
「朝霞に会った?」
 ミクはベッドの片隅に腰掛け、そう切り出してきた。髪はほぼ拭き終わったようで、今度はベッドの脇に置いた鏡を覗き込み、何か化粧品のようなものを顔に塗りたくっていた。
「ああ、昨日会ったよ」
「やっぱりね。それで、どうだった?」
「どうって?」
「だから、会ってみた感想よ」
「別に世間話とかしただけだよ。特に感想も何も無いけど」
「ふーん」
 ミクは意味ありげに鼻で答えた。
「どこか出掛けるの?」
「あんたバカじゃない?パジャマ着てどこ行くのよ」
「いや、化粧してるから」
「化粧じゃないわよ。もう、あっち向いてなさいよ」
 僕は素直に疑問を投げ掛けてみただけなのだが、どうも見当違いのようだった。
「ほんとあんたって駄目ね。もうちょっと気を利かせたりできないの?」
「外に出てようか?」
「違うわよ。朝霞のことよ」
「ああ、僕なりに精一杯の努力はしたつもりだけど」
「今日の朝霞、元気無かったよ。聞いても何も答えないし」
「別に僕は何もしてないよ」
「わかってるわよ。あんたに何かできる度胸があるなら心配しないわよ」
 心配してもらわなくても僕は大丈夫と思うのだが、僕がミクをそう見てるようにミクから見たら僕もまた子供の頃のままなのかも知れない。もしかしたら、もっと心配を掛ければ結婚を取り止めるなんてこともあり得るのだろうか。僕はそんなくだらないことを考えていた。
「困るのよね。あんなふうに落ち込まれると直送とか行ってもらえないし」
「うわ、鬼だな」
「鬼って何よ」
「直送ってあれだろ?よく先輩に押し付けられて嫌だって言ってた」
「販売員なら誰でもやらなくちゃいけない立派な仕事なのよ。売り場に立ってるだけが仕事じゃないんだから」
「じゃあ、ミクがやればいいのに」
「あたしは直送向きじゃないし、適材適所ってのがあるでしょ」
「そういうものなのか?」
「そういうものなのよ」
 よくわからないけど、今日の用件というのもいつもと変わらず大したことじゃなかったようだ。相変わらず鏡に向かって睨めっこをしているミクを眺めながら、僕は久し振りにこの部屋の心地好さを満喫していた。
「ねえ、泊まって行くの?」
「ああ、もう僕の部屋は倉庫みたいになってるよ。終電で帰る」
「そう…」
 ミクはなんとなく寂しそうに呟いた。子供の頃は夜遅くまでお互いの部屋に入り浸っていてよく怒られたものだけど、大人になって怒られることがなくなると、逆に遅くまで入り浸ることは許されなくなってしまった。何も成長していないようでいて、知らず知らずのうちに僕らを取り巻く状況は変化してしまっていた。そして、ミクがミクで無くなった時、こうやって会うことすらできなくなってしまうのだろう。そう思うとなんだか僕も寂しくなった。
「終電って何時?」
「あと1時間くらいかな」
「そう、随分早いのね」
「上りだから、下りよりは早いよ」
 そう言いながら、僕はここに居られる時間がどんどん減っていくのを感じていた。
「まあ、とにかく朝霞はあんたに気があるんだから」
「えっ?」
 ミクが見当外れなことを言い出したので、僕はちょっと驚いた。
「もう、そういう態度だから駄目なのよ。ちょっとはしゃんとしなさいよ」
「いや、それは無いよ」
 何しろ朝霞さんは大塚ようこで、僕は僕なのだから、うまく行くはずがないのだ。体良く否定されたということくらいは僕にも想像付く。
「どうして無いって言えるのよ」
「それはつまり…」
 僕が説明し辛そうにしているとミクは強引な理論を押し付けてきた。
「あんたがそういう態度だから、朝霞が落ちこんじゃったのよ。気があるに決まってるでしょ」
「そう言われてもなぁ」
 本当にミクの言う通りなら嬉しいことだけど、うまく話に乗せられて浮かれたりすると手痛いしっぺ返しを食らいそうで怖かった。
「じゃあ、あんたはどうなのよ?」
「だから、別にどうってことはないよ。普通だよ」
「それなら、明日言っておくわ。気が無いみたいだから諦めなさいって」
「いや、別にそこまで言わなくても」
「言われたくなかったら、態度はっきりしなさいよね」
「わかったよ。どっちにしてもまた会ってちゃんと話すから、心配しないでいいよ」
「あたしがせっかく紹介してあげたのに、そんなふうだとあんたなんてもう一生結婚できないわよ」
「まあ…」
 結婚なんてもうしないでいいと思えた。

 一時の気の迷いなんて言うと申し訳無いけど、結婚なんてものは必要悪とでもいうか、できればしない方が望ましいものなのだろう。社会生活の円滑な運営上、やむを得ず必要とされている制度なのだと思えてならなかった。
 裏切り者。ミクがそんなふうに僕を罵倒した日のことを今でもよく覚えている。今の僕がその罪を償い終えたのか、それともまだ償い足りないのか、それはよくわからなかったけど、結婚を決めたミクを罵る資格なんて、もちろん僕には無いのだと思えた。
 駅まで送ると言うミクの申し出を断り、僕は一人寂しくシャッターの降りた商店街を歩いた。すれ違う人も少なく、辺りは怖いくらいに静まり返っていたが、駅が近付くにつれて多少賑やかさを取り戻していった。
 都心に向かう最終電車というものは、何か異様な雰囲気を漂わせている。等間隔にぽつんぽつんと席に着く乗客は、誰もが何か悩みを抱えているようでもあり、僕もまた傍観者ではなく、その中の1人なのだということを痛感した。忘れてしまいたい記憶が消え去るまでには、まだまだたっぷりと時間が掛かりそうで、僕は憂鬱と孤独を抱えながら、座席から伝わる振動に心を震わせた。
# by m_motoya | 2004-11-05 21:05 | 第3章


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